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Koji Kawa

私の研究:日本人は中国の歴史小説をどう読んできたのか

教育講師という現職にあり、また日常的に翻訳と訳注も仕事の重要な一部と考えていることから、ここでは私の研究の中で「教育」と「翻訳」を主題にして、一端をご紹介しておきたいと思います。

日本人はずいぶん昔からさかんに中国の歴史小説を読んできました。そのもっとも代表的な作品である『三国志演義』は室町時代末にはすでに伝わり、江戸初期には漢文学に詳しい人々には知られていたと考えられます。最初に全編が翻訳されたのも『三国志演義』で、その『通俗三国志』は江戸前期に出版されてから幕末期にいたるまで、もっともよく読まれた「翻訳文学」の作品のひとつでもあったといえるでしょう。

さらに同時期に多くの作品が出版され、それらが「通俗軍談」というジャンルとして成長することで、各代の歴史を書く歴史小説が翻訳され、日本において長く読まれていくことになりました。ではなぜ、これほど熱心に中国の歴史小説が読まれていたのでしょうか?

『絵本通俗三国志』より関羽。江戸後期にかけては、通俗軍談は絵入り本としても親しまれた。

「通俗軍談」の成立と展開

「通俗軍談」というジャンルの書物は、おもに江戸時代の中期、元禄年間(1688―1704)から享保年間(1716―1736)にかけて出版されました。

いわゆる『三国志演義』が元禄二年(1689)から湖南の文山の訳による『通俗三国志』として刊行され、続いて『通俗漢楚軍談』(元禄八年、1695)、『通俗唐太宗軍鑑』(元禄九年、1696)、『通俗両漢紀事』(元禄十二年、1699)が、夢梅軒章峯と、その弟である称好軒徽庵によって作られました。「湖南の文山」は先行研究によって、夢梅軒章峰の別号であると考えられるため、この兄弟が日本における中国歴史小説の翻訳の先鞭をつけたことになります。

これだけならば個人の作者の連作にすぎないともいえるのですが、それが「通俗軍談」というジャンルとして成立したことについては、『通俗三国志』の例にならった体裁により、清地以立『通俗列国志』前後編こと『通俗呉越軍談』(元禄十六年、1703)と『通俗武王軍談』(宝永二年、1705)が出版されたことを一つの画期とみてよいと思われます。

宝永元年(1704)には早くも『通俗三国志』の続編をうたって中村昂然『通俗続三国志』が作られ、さらに宝永二年には、一鶚『通俗南北朝軍談』『通俗北魏南梁軍談』も同じ形式をとって翻訳出版されており、この時期が通俗軍談の出版のピークとみることができます。これらはすべて、中国で出版された長編の歴史小説の翻訳作品です。

またいっぽうで、通俗軍談は、史書に基づいて作者が独自に作った作品をも含むものとなりました。この形式の作品は『唐玄宗軍談』(宝永元年)、漢学者毛利貞斎の著である『通俗戦国策』(元禄十六年)および『通俗五代軍談』(宝永二年)などがあります。『唐玄宗軍談』は『通俗続三国志』の訳者中村昂然の作であり、二つのタイプの作品をともに手がけたと考えられます。

このように同じ「通俗軍談」という名前でも、内実としては二つに分かれているのですが、当時の読者としては必ずしもそれを区別することはなかったでしょう。同じ漢字カタカナ交じりの訓読調を取り入れた文体で、書物としての体裁も似通ったものだったからです。

そしてこれらの通俗軍談に付けられた序の中では、しばしば中国史を知ることへの啓蒙的な効用が説かれ、いっぽうで史書と合わない記述については批判されることがありました。

通俗軍談というジャンルが確立した時点から、すでに史書との整合性は大きな問題として考えられていたようです。このあたりは現在の歴史小説や歴史読物とも重なるところがあります。

ちなみに『通俗呉越軍談』には、『春秋』の諸伝と『史記』『戦国策』などの史書と異なることが書かれている場合は注がつけられていますし、李下散人『通俗十二朝軍談』(正徳二年、1712)も『春秋左氏伝』『史記』『資治通鑑』などの書物を引証して本文の歴史事実の誤りを指摘しています。

じつは中国の歴史小説の多くの作品が、物語の枠組みのほうが先に成立し、それを史書に拠りながら訂正するとともに、話柄を増やしながら完成したことを考えると、日本でも同じようなことがもういちど行われていたといえるかもしれません。

史書と通俗軍談の関係

『皇明通紀』和刻本。かなり特殊な版本から翻刻されており、「続文」としてしばしば小説『皇明英烈伝』の本文がそれと明示されずに引用されている。

ところで「江戸時代」とは言いながら、通俗軍談の主な出版地は江戸ではなく京都・大阪でした。そして作者や出版者たちは、基本的には儒学・漢学に携わる人々かその周辺にいたといえます。

たとえば宝永二年(1705)に『通俗皇明英烈伝』を出版した京都の書肆、文会堂林義端は、伊藤仁斎のもとで学んだ学者でもありました。この『通俗皇明英烈伝』は明の建国を扱う歴史小説『皇明英烈伝』の翻訳です。

訳者は岡嶋冠山であり、当時の現代の中国の口語を学ぼうとする、いわゆる唐話学の中心的な人物でした。長崎の通事の出身であったために中国の口語・俗語に詳しく、『水滸伝』の訓訳をしたことで知られています。『通俗皇明英烈伝』は『水滸伝』に先んじて、京都に滞在していたさいに行った仕事でした。

書肆である林義端は、明代の編年体史書『皇明通紀』の和刻本に続いてこの『通俗皇明英烈伝』を出版し、『通俗皇明英烈伝』の序で、中国史は史書でも、また歴代の「演義」つまり小説でもよく知られているが、まだ明朝の歴史に説き及ぶものがない、と述べています。それも当然で、清朝による正史『明史』はこのときまだ完成されていませんでした。

さらにその当時に『皇明通紀』の和刻本に続いて『通俗皇明英烈伝』を出版する意義を強く主張し、史書と通俗軍談が相互に補完し合うことを目指したと述べます。

つまり『通俗皇明英烈伝』は明代史の啓蒙書、つまり「通俗」的な「史書」としての意味をも持たされていたことになります。もともと小説『皇明英烈伝』は、その文中に史書『皇明通紀』を引用した部分があり、『皇明通紀』の数多い異本の中には、参照書目に『英烈伝』の名が見られるものや、その文章じたいを引用したものもあり、密接かつ相互的な関係を持っていました。

ふつうの歴史書から歴史小説へ、という一方通行ではなく、歴史小説から歴史書へ、という逆転の関係をも持つこの二つの書物の関係は、日本で史書『皇明通紀』が翻刻され、小説『英烈伝』が翻訳される過程においても続いていたといえます。

一つの書肆が史書の和刻本とともに同じ時期を扱う通俗軍談を同時期に出版した例は他には見当たらず、この時期の通俗軍談において行われた一つの新しい試みとして考えることができるでしょう。

題材と方法の拡張

享保年間(1716―1735)には『通俗国姓爺忠義伝』(別題『明清軍談』、享保二年、1717)『通俗宋史太祖軍談』(享保四年、1719)『通俗両国志』(享保六年、1721)『通俗台湾軍談』(享保八年)が出ています。宝永年間における一つのピークを受けて、題材が広がり、また似た体裁で出版されてはいるものの、異なる方法を用いて制作されています。

その中で、瑞亨堂松下氏『通俗宋史太祖軍談』は、歴史小説『南北両宋志伝』のうち前半部である『南宋志伝』を原著とする翻訳ですが、訳者による目立った増補が見られます。

享保四年に出版された『通俗宋史太祖軍談』の訳者瑞亨堂松下氏は、松下平左衞門、号は殷齋、他の著書に『古暦便覽』の増補があります。またこの松下平左衞門は著書と若干の資料から、暦学と占術をおさめた人物であると考えられます。

『通俗宋史太祖軍談』には、訳者による目立った増補部分が見られます。それについて整理すると、『水滸伝』による描写の増加、史書に基づく記述の増加、『資治通鑑綱目』『歴史綱鑑補』などによる史論の引用の増加であるといえます。

『水滸伝』による描写の増加については、『南宋志伝』の中にある『水滸伝』と近い場面を、『水滸伝』から引用した描写部分を増やすことで、場面が類似することを指摘しているのではないかと考えられます。

また史書に基づく記述、史論の引用の増加はともに王朝の興廃に関わる天命を論ずる部分、人物とくに占者の伝が増やされていることから、おそらく自らの本業である占者がいかに有益な存在であるか、ということをひそかに宣伝する意図があったようです。

『通俗宋史太祖軍談』は享保年間に出版されており、まだ『水滸伝』の本格的な訳注は出ていない時期でした。そのころに訳者松下氏は『水滸伝』を読み、『南宋志伝』と比べた上で、『水滸伝』の一部を翻訳の中にしのばせていると考えられます。それはこの直後の年代に『水滸伝』に関わる書物がいくつも作られ、「通俗物」全体が、通俗軍談から口語的表現の多い小説の翻訳を行う方向に向かっていったことに先がけるものだったといえるでしょう。

また、『通俗宋史太祖軍談』には関連する企画として、同じ中国の歴史小説、しかもより歴史書とは離れた架空の人物中心の英雄物語としての色合いの濃い歴史小説である『残唐五代史演義』と、『北宋志伝』つまりいわゆる『楊家将演義』を通俗軍談にする、というものがあったようです。つまりこちらがうまく進んでいれば、より歴史書とは離れた架空の人物中心の英雄物語としての色合いの濃い歴史小説に題材が広がっていたことになります。

『通俗宋史太祖軍談』もまた、以降の「通俗物」が進んだ方向と進まなかった方向の分岐にまたがるところに位置する作品であるといえるでしょう。

歴史教育との関係

江戸中期の儒学者江村北海(1713―1788)は、その学習観を説いた『授業編』(1783)において、通俗軍談の用い方について以下のように述べています。この文が書かれた当時には、すでにほぼ通俗軍談は出そろっていました。

世ニ通俗モノト称スル、漢楚軍談、三国志演義ナド云フタグヒ、上ニイフ如ク、童蒙素読ノ余暇ニ、他ノナグサミニカエテ渉猟シオケバ、後来歴史ヲヨムノタスケニナル事多シ、但シコレラノ書ヲ読ムハ、読書ヲ本業トシテ、課読スルニハ非ズ、読書ノアイダノナグサミニヨム心ナリ、(巻二)

当時の通俗軍談を通じた中国歴史小説の受容をみるさいに必ず引かれる一節であり、通俗軍談というジャンルそのものがその先に続く中国史の学習に進むためのステップとして考えられています。また『授業編』には「本業」であると強調される中国史の学び方についてもふれる部分があります。

歴史学習については『資治通鑑』『資治通鑑綱目』と『十八史略』を挙げ、それらを段階的に組み合わせることを示しています。

つまり全体としては、通俗軍談を初等教育のさいに課外において読んでおき、その後に『十八史略』から『資治通鑑』『資治通鑑綱目』と進んでいくことが示されているといえるでしょう。

『資治通鑑綱目』については、江戸初期の林羅山から、伊藤仁斎や新井白石といった学者たちがこぞって重要な史書としてとらえており、貝原益軒が教育について述べた『和俗童子訓』にも、「経伝の外、これに及べる好著は有べからず」とまで絶賛されていました。

前掲の『通俗皇明英烈伝』序にも、『通鑑綱目』が挙げられていましたが、江戸期において『資治通鑑綱目』というと、寛文年間(1661―1672)に和刻本が作られたさい、『資治通鑑綱目』が扱う以前の時代を同じ形式で書いた明・南軒『資治通鑑綱目前編』と、宋元までの時期を含めた明・商輅『資治通鑑綱目続編』が合刻されていました。日本では主にこの形で広まっていたといえ、『通俗皇明英烈伝』序の「元朝ニ至リテ止ム」という言葉も、それをふまえたものです。

『十八史略』も日本において通行したのは明の陳殷の音釈などを加えた七巻本で、これは明の劉剡により、三国時代の部分が蜀を正統として扱うよう書き換えられたものでした。これも『資治通鑑綱目』にならったものです。

『三国志演義』が劉備を主人公として蜀のがわに立つのは、もともと民間で伝わる物語を反映していることはもちろんとして、『資治通鑑綱目』とそれに類する史書が用いられることで、より漢の正統が強調されているわけです。

つまり、江戸中期以降、たとえば藩校に学んだ士分の子弟は、四書五経の素読のかたわら『通俗三国志』を読み、続いて『十八史略』七巻本を読み、さらに『資治通鑑綱目』によって知識を深めていったことになります。この学習課程で学ぶ史観は蜀を正統として一貫しており、『通俗三国志』が日本で長く読まれ続けた理由はここにもあったといえるでしょう。

江戸時代後期にかけて、各地に藩校が増えていきました。その蔵書にはしばしば史書とともに通俗軍談があったことが指摘されているのも、このような学習課程を裏づけているといえます。

通俗軍談最後の作品

『通俗宋元軍談』序文。

18世紀後半以降、より白話の使用度が高い作品の翻訳としての「通俗物」が現れ、『水滸伝』『西遊記』の翻訳を含めた、いわゆる「後期通俗物」の先鞭をつけます。ちょうどこの時期を境にして後の時期には、新たな歴史小説が翻訳されることがなくなってしまいました。

『舶載書目』などの日本への輸入の記録から見ると、『楊家府演義』『説唐全伝』『隋唐演義』『説岳全伝』『飛龍全伝』『万花楼演義』など歴史小説の中でも歴史書との関連が薄い作品群も輸入されており、中国での人気と流通の多さを見て取ることができますが、それらが通俗軍談になる、つまり日本で翻訳出版されることはありませんでした。

この頃、宝暦年間(1751―1763)には『通俗三国志』『通俗宋史太祖軍談』『通俗北魏南梁軍談』などが再版されており、通俗軍談の需要じたいが無くなったわけではないことがわかります。

通俗軍談を全体としてみると、歴史小説を原著とする場合、どれも比較的史書との距離が近い作品であり、とくに王朝交代の時期を扱っているものが選ばれ、扱う時代の重複した作品が通俗軍談にされることは基本的にない、という特徴が見えてきます。この中国史の各時代に対する網羅性という観点から見ると、『北宋志伝』や『残唐五代史演義』、そして清代中期以降に出版された、歴史書との関連がうすい作品群が訳されなかった理由もある程度まで説明をつけることができるでしょう。

たとえば『北宋志伝』つまり『楊家将演義』については、もとの小説のできがよくなかったために知られるのが遅れた、という言い方もあるようですが、私としてはそれに与しません。

そして、かなり時代が下った19世紀初頭に、通俗軍談の最後の作品である『通俗宋元軍談』が出版されました。

『通俗宋元軍談』は寬政十年(1798)の序、文化十三年(1816)の出版です。通俗軍談が出版されるブームといえた時期から、とうに数十年は経っています。「通俗軍談」には「前期通俗物」という呼び名もあるのですが、この時期には先ほどもふれた通り、「後期通俗物」つまりより「白話」つまり口語に基づく表現の多い小説たちの翻訳もすでに起こっていました。この時期に書肆にはどのような販売戦略があり、通俗軍談を新たに制作する意義はどこにあったのでしょうか?

『通俗宋元軍談』は全十二巻、六十一則からなります。タイトル通り、南宋の滅亡と元朝の成立を描くもので、基本的には宋と元の記述を交互に行うように進んでいきます。記事は『宋史』『元史』の本紀と列伝に載るものがほとんどを占めており、それらを訂正するような注釈はつけられていません。

通俗軍談のうち、歴史小説に基づく作品群では、先にも述べた通り、たとえば『通俗呉越軍談』では、史書との対比が行われたり、『通俗十二朝軍談』では『春秋左氏伝』『史記』『資治通鑑』などの書物を引用して誤りを指摘したりしますが、『通俗宋元軍談』は複数の史書を対照して訂正するような部分はありません。

また『通俗宋史太祖軍談』では、『南宋志伝』の翻訳に小説『水滸伝』や史書に基づく記述、『資治通鑑綱目』などによると思われる史論を増補していますが、『通俗宋元軍談』では、人物や事件に対する論評はあまり見られません。

しかし、特徴的な史書への増補部分が別に存在しています。たとえば、元軍が荊州沙市を陥落させた戦いについては『元史』は「丙午、大元兵破沙市城、都統孟紀死之、監鎮司馬夢求自経死」と短く書くのみです。じっさいどのような戦だったかは分かりません。それを、『通俗宋元軍談』は以下のように書きます。

伯顔後陣ヲ率イテ馳来リ、汝等スコシモ驚クコト勿レトテ、敗軍ヲシヅメ自ラ白羽扇ヲモツテ、味方ヲ指揮シ忽チ八門金鎖ノ陣ヲ布クニ、孟寬馬夢求元来コノ陣法ヲ知ラネバ、忽然トシテ四方ヨリ取圍レ、死力ヲフルヘドモ出ヅルコト能ハズ、馬ヲタテテ四面ヲ望ムニ、喊ノ聲ココカシコニ聞エ、天地朦朧トシテ東西ヲ失ヒタレバ、スベキヤウナク、タダ此処ニ斬死ニ死スベシトテ、二人ウチ残サレタル勢ヲ分ケテ、左右ニ分レ、又元兵ノ中ニ砍テ入ルニ、孟寬ハ流矢ニアタツテ射落サレ、忽チニウタレケリ、馬夢求ハ伯顔ガ備ニ突イテ入ルニ、伯顔イツハリ負ケ、ワザト死門ノ方ニ走リテ、敵ヲ引ケバ、馬夢求勝チタリト喜ビ、勢ニ乗ツテ追ツカクルニ、忽チ後ノ方ヨリ、一人ノ大将李恒、ココニアリト叫ンデ、横合ヨリ殺倒シ、馬夢求ヲ只一鎗ニ突落シ、首ヲ取テサシ揚ゲタリ、

元軍の伯顔という人物を『三国志演義』の孔明のように「白羽扇」を持つ人物とし、同じく『三国志演義』に登場する「八門金鎖の陣」を敷かせています。また本来、「司馬夢求」であるはずの人名を「馬夢求」とし、また文臣であったのを武将に変えて討ち死にさせています。

ここでは作者はいかにもほかの「通俗軍談」つまり歴史小説の翻訳作品に見られそうな場面を作り出しているわけです。

歴史書に沿いながら読物を作り出すだけであれば、歴史小説の翻訳としての「通俗軍談」を必ずしも参照する必要はありません。しかし、18世紀も末になると、先ほども述べた通り、各藩校の正規の教育課程ではないとはいえ、中国の歴史を知るための通俗軍談の効用が説かれ、それが行きわたっていた時代であるといえます。

また、『通俗宋元軍談』を出版した書肆も通俗軍談を教育と関連付けて考えていたのではないかと思われます。出版者の東壁堂こと永楽屋東四郎は、尾張藩との関係が深く尾張藩校である明倫堂御用達に指定していましたし、明倫堂による国学、漢学の書籍をも出版していました。

私の調査によれば、著者である「源忠孚」は尾張藩士幡野忠孚(1768ー1843)という人物だと考えられます。『名古屋市史』人物編第二に見られる略伝からすると、ある事件から家督を継げず、不遇をかこつ前半生を送りましたが、学問を修め史学に詳しい人物として、後半生では尾張藩の学問サロンに加わって一目置かれる存在になったようです。

幡野忠孚は上で述べたように、先行の通俗軍談の展開や文章を取り入れながら、宋元の王朝交代期を歴史小説に仕立てました。しかも興味ぶかいことに、宋の側に立つよりはむしろ元朝のがわに立ち、伯顔の活躍に沿って展開していく部分が多いのです。

もちろんいわゆる元寇の場面では、おそらく先行の日本の通俗史書『北條九代記』に拠り、日本の側に立って記述しているものの、元朝を中心にした歴史小説として先駆的な作品といえるでしょう。

歴史書としては、正史『元史』のほか、『資治通鑑綱目』に連なる史書『節要続編』、しかもその明代後期の改編後の版本を利用していると考えられますが、ここではあまり詳しく述べないことにしましょう。

ただおもしろいのは、明代後期から清代にかけて、中国で出版された歴史小説たちも、しばしば『節要』などの記述や史論をふまえていたということです。『通俗宋元軍談』の作者がそこまで知っていたかどうかは分かりませんが、いわば中国と同じような過程を経て、日本で中国歴史小説が作られていたということになります。

しかも中国でも「南宋の滅亡」ではなく「元朝の成立」を元の側に立って書いた歴史小説は、少なくとも現在まで名を知られている作品がなく、日本で作られた『通俗宋元軍談』が当時唯一といっていい存在だったことは着目してよいでしょう。

教育と翻訳

通俗軍談の読者に対しては、しばしば中国史の啓蒙という視点が強調されてきました。それは日本人にとって中国の歴史を学ぶことが重要な教養と考えられ続けてきたために他なりません。しかし日本が近代をむかえて以降には、その重要度は以前と比べて大きく下がりました。そのため通俗軍談も、20世紀の初頭に至って活字におこされて再度出版されはしたものの、国文学の研究からも、中国文学の研究からも詳しく取り上げられることが少なく、その後は長らく不遇をかこつことになりました。

ただ、これらの中国歴史読物あるいは歴史小説と呼べる一群の作品が存在していたからこそ、近代以降も中国歴史ものが一ジャンルを形成し、現代に至るまでの基礎となっているとはいえるでしょう。また出版当時の、正規の教育課程とのつかず離れずの距離も現代の歴史読物や歴史小説と共通するところがあるといえるかもしれません。

翻訳という観点からいえば、ほとんどの作品が文学作品の翻訳よりも実用に供するための翻訳にやや近く、もとの文章をどのように日本語に逐語的に訳していくかというよりは、読者が読む速度をゆるめることなく進んでいけるようにと考えられているように見えます。

そしてその文体は、日本の歴史を書く通俗的な史書や近世軍記とともに、日本における歴史物語の書き方を決定づけていく一つの重要な要素であったといえるでしょう。

翻訳の文体と場面の展開をまねて史書から歴史物語を立ち上げていくタイプの通俗軍談の作品は、注釈こそ必要でしょうが、啓蒙という視点が弱まった現代でも、かつて行われた歴史小説の題材と手法の模索を今に伝える作品として、もう少し読まれてもいいのではないでしょうか。

そのためには論文に書くことはもちろんですが、翻刻、訳注など出版にまつわるさまざまな手立てを講じながら、近世以前の中国歴史物語を書いた作品やその作者および読者と現代とをつなげるような研究をこれからも展開していきたいと思っています。

参考文献

  • 中村幸彦「通俗物雑談―近世翻訳小説について―」『中村幸彦著述集』 第七巻所収、中央公論社、一九八四
  • 徳田武『日本近世小説と中国小説』青裳堂書店、一九八七

    第一部「読本前史」
    第一章 中国講史小説と通俗軍談
    第二章 『通俗三国志』の訳者
    第三章 『三国誌後伝』と『通俗続三国志』
    第四章 『通俗元明軍談」と『英烈伝』
    第五章 『通俗台湾軍談』と『靖台実録』

  • 長尾直茂「通俗物研究史略-附『通俗三国志』解題」『漢文学 解釋与研究』一、一九九八
  • 川浩二「『通俗皇明英烈伝』の「通俗」―歴史小説『英烈伝』の日本における受容から」『中国文学研究』三一、二〇〇五
  • 川浩二「『通俗宋史太祖軍談』の譯者松下氏による増補・引用部分について」『中国文学研究』四〇、二〇一四
  • 川浩二「日本人は中国の歴史小説をどう読んできたのか―「通俗軍談」を中心に」『楊家将演義読本』所収、勉誠出版、二〇一五

※本稿は上記の川浩二2015を基礎とした部分が大きい。