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Yangsook Kim

私の研究:韓国済州島の巫俗信仰

はじめに

私は修士課程で人の移動による文化の持続と変容に関心を持ち、済州島出身の在日コリアン1世の女性たちの生活誌に関するインタビューを行なっていました。彼女たちの多くは、海女として日本に出稼ぎをした経験を持ち、日本に定住するようになってからも熱心に済州島の巫俗儀礼である「クッ」を行っていました。また、在日巫者(シャーマン)の高齢化が進むと済州島から巫者を呼び寄せたり、自ら帰郷してクッを行うなど、国境を越えた信仰実践が行われていることがわかりました。以後、博士課程では巫俗信仰(シャーマニズム)を研究テーマとして済州島の農村でフィールドワークを行い、現在は共同体のあり方や都市化、産業化などを含めた済州島の地域研究をしています。昨年、これまでの研究成果として明石書店から『済州島を知るための55章』(共編著)という入門書を出版しました。以下では、本書を振り返りながら済州島と巫俗信仰について紹介したいと思います。

写真1 『済州島を知るための55章』表紙

地図 日中韓に囲まれた済州島

東シナ海の要石—火山島の自然と歴史

本書は、済州島の自然や文化、歴史、社会、日本との関係に関する様々なテーマについて各分野の専門家が執筆したものです。本書を編集しながら見えてきたのは、済州島が古代から中世においては東シナ海における「海域交流の要」であり、中世以降は朝鮮半島の「辺境防衛の要」として歴史に翻弄される経験をしているという点です。そして長期にわたる中央政権による収奪や暴力の経験を経て、現在は「東アジアの平和の要」として再生することを模索していることがわかりました。

済州島は朝鮮半島から南に約90km離れた位置にあり、緯度は九州北部と重なります。火山の噴火によって形成された火山島で、中央に韓国最高峰の漢拏山(1950m)が聳え、その中腹や海沿いに360余りの寄生火山「オルム」や溶岩洞窟が点在しています。風、石、女の多い「三多島」と呼ばれるように、季節風の影響を受け一年中風が強く、火山生成物である多孔質の黒い玄武岩に覆われているため農業には向かない土地でした。女が多く見えるのは人口比のせいだけではなく、海女のように外で働く女性が多かったためでしょう。人々は厳しい自然環境と闘って来ましたが、火山のもたらした神秘的で美しい景色が観光資源となり、1970年代以降は韓国屈指の観光地に成長しました。さらに、2007年に「済州火山島と溶岩洞窟群」がユネスコ世界自然遺産に登録されるとトレッキングブームが起こり、2016年には年間観光客が1500万人を突破してアジア屈指の観光地として注目されるようになりました。海や山、草原に囲まれた済州島の風景は都会の生活に疲れた人々の心を癒し、移住ブームも起きています。

このように韓国最南端のリゾート地として知られる済州島ですが、かつてはこの島に耽羅(タムナ)という独立国が存在していたことをご存知でしょうか。耽羅は船を操って朝鮮半島本土や中国、日本とも外交や交易を行っていました。例えば『日本書紀』には661年に耽羅が王子を遣わしたとあり、『延喜式』や平城宮出土木簡には「耽羅鰒(アワビ)」の記載が見られます。日中韓の航路上に位置した耽羅は、この海域を縦横無尽に移動する海洋王国でした。

しかし12世紀になると高麗の郡県制に組み込まれ、朝鮮時代には本土から本格的な統治を受けるようになります。済州島は辺境の流刑地となり、蜜柑や馬、海産物などの徴税に苦しみます。そのため島外に出る者が後を絶たず、出陸禁止令が出されるほどでした。一方で中央集権国家の「辺境」に位置し海に開かれているということは、周辺諸国に対する防衛の最前線となることを意味していました。高麗を制圧し南方への進出を目論んでいた元は、13世紀に済州島に馬牧場を設置し、約100年直轄統治しました。また、朝鮮時代には倭寇や外国船の侵入を防ぐ軍役が課せられ、太平洋戦争末期には米軍との決戦に備えて島全体が日本軍の要塞となりました。さらに、戦後の米ソによる南北信託統治期には分断の葛藤が済州島で衝突し、1948年には武装隊による蜂起とそれを弾圧する軍警による大規模な住民虐殺が行われました(四・三事件)。このような過酷な歴史の中で人々は海の外へ向かい、朝鮮半島本土はもとより日本でも多くの済州島出身者が暮らしています。

写真2 寄生火山オルム(余田幸夫撮影)

写真3 済州島の海女(古谷野曻撮影)

一万八千の神々が宿る島

済州島では今も巫俗信仰が盛んで、様々なクッが営まれています。クッを行うシャーマンを済州島ではシンバン(Shimbang)といいます。済州島のクッは1日で終わるものから7日〜14日におよぶものもあり、複雑な祭順や長大な巫歌の習得など高度なテクニックを要するため、シンバンには世襲巫が多く見られます。クッには村の聖所である堂(タン)(Tang)で行われる堂クッや海女たちが行うチャムスクッ(海女祭)、家内安全や治病、祈子祈願、死者供養、建築儀礼など家庭で行われる様々な除災招福のクッがあります。

済州島の巫歌には「一万八千の神」という言葉が出てきます。これは日本の「八百万の神」と同じで、数え切れないほど多くの神がいるという意味です。道教や仏教の神から狩猟神など土着の神まで、多様な神々がクッの目的に応じて招請され、シンバンの歌舞による祈願、占い、託宣、送神儀礼が行われます。これらのクッの祭順に、神々を悦ばせるための巫歌「ポンプリ」や、シンバンが神霊に扮して行う「ノリ」という聖劇儀礼が挿入されます。ポンプリは神の来歴をつまびらかにする神話で、全島に共通する「一般神ポンプリ」、各村に伝わる「堂神ポンプリ」、特定の一族の守護神にまつわる「祖先神ポンプリ」の3つに分類できます。ポンプリには箱舟漂着や狩猟神と農耕神の婚姻、末子や女神の活躍など様々なモチーフが見られ、済州島の人々の暮らしが反映されています。

面白いポンプリがたくさんありますが、ここでは農耕神に関するセギョンポンプリを紹介しましょう。チャチョンビという娘が都に学びに行く途中の天上のムンドリョンという若者を見初め、男装をして都に付いて行きます。チャチョンビは勉学も運動もムンドリョンに負けず、勉学を終えた後に女であることを明かし夫婦となることを約束します。その後様々な苦難がチャチョンビを襲いますが、持ち前の機転と器用さで苦難を克服して特殊な能力を体得します。さらに天上で起きた乱を平定し、天子から五穀の種を賜り農耕神セギョンになった、という物語です。情熱的で波乱万丈な女神の物語は、働き者で手先の器用な済州島の女性たちの姿と重なります。済州島の人々は海の彼方から訪れる多様な文化を受容し、豊かな信仰世界を築いてきたのでしょう。

写真4 臥屹里の堂クッ

写真5 ヨンガム神に扮したシンバン

写真6 チャムスクッで龍王に扮したシンバン

信仰を紡ぐ人々

修士課程でインタビューをしていた頃、1世の女性たちの中には子供に内緒にしながらクッを行う人もいました。彼女たちが幼い頃から親しんできた信仰は、子供の世代には理解されないことも多かったようです。済州島でも、巫俗信仰はたびたび迫害を受けて来ました。朝鮮時代には本土から派遣された役人や流刑知識人らによって、特に蛇神信仰が「淫祀」として弾圧され、堂の焼き討ちや蛇神退治が行われました。近代以降は迷信打破運動の対象となり、済州島では1969年に行われた新生活運動で行政によって堂が破壊されたり、シンバンの廃業宣言が新聞を賑わせました。

しかし、ほとぼりが冷めると人々は堂を再建し、シンバンもクッを続けました。また、このような状況に危機感を抱いた民俗学者らはクッを伝統文化として保存すべきだと政府に働きかけ、「済州チルモリ堂ヨンドゥンクッ」が1980年に重要無形文化財に指定され、2009年にはユネスコ無形文化遺産にも登録されました。現在ではクッを隠れて行う必要もなくなり、信仰の対象としてのクッとステージの上で見せる伝統文化としてのクッが共存しています。一方でシンバンの高齢化により堂クッを維持できない村も出ていますが、そういう村では住民が他の村のシンバンに堂神の来歴を教えてスカウトすることもあります。このように、巫俗信仰の調査をしていると信仰を守る人々のたくましさに驚くことが多々あります。

写真7 『耽羅巡歴図』「巾浦拝恩」1703年。燃やされる堂が描かれている。国立済州博物館所蔵

写真8 チルモリ堂ヨンドゥンクッ(古谷野曻撮影)

参考文献

  • 泉靖一1966『済州島』東京大学出版会
  • 金良淑2009「韓国の出稼ぎ巫者とトランスナショナルな信仰空間の生成」旅の文化研究所研究報告18
  • 金良淑・梁聖宗・伊地知紀子編2018『済州島を知るための55章』明石書店
  • 玄容駿1985『済州島巫俗の研究』第一書房
  • 高野史男1996『韓国済州島—日韓をむすぶ東シナ海の要石』中公新書